パン！

リズが両手を叩くと、ハッとリンネは顔を上げた。

「リズ、さん？」

「リンネさん、どうやらお迎えが来たようよ」

ふふ、と笑みを浮かべてリンネを見つめる。

「迎え、ですか…？」

分からないと言った表情で首を傾げるリンネを椅子から立ち上がらせると、入り口へと促す。

玄関の扉を開けると、外には今にも攻撃を家にしかけそうなヴラドが立っていた。

「ヴラドさん！」

ヴラドを見つけたリンネは嬉しそうに笑って駆け寄る。
それを見たヴラドの殺気は幾分和らいだように思えた。

「リンネ、何もされていないか？」

傍に来たリンネを腕の中に収めると、殺気を纏っていたとは思えないくらいに柔らかい声色で尋ねる。

「はい。お茶を頂いてお話をしていただけですよ」

そう言って頷いたリンネに幾分ほっとしたような表情を浮かべる。

「いやだわ、ヴラドったら。私が貴方の大事な人に何かするわけないじゃない？」

入り口に背中を預けながらリズは笑みを唇に乗せる。
その笑みに探るような視線を向け、フンと鼻を鳴らした。

「どうだかな」

リンネを腕の中に収めたまま、スっと目を細めた。

「相変わらずヴラドは冷たいわねー。長い付き合いじゃない」

「フン、まぁいい…リズ、良く覚えておくんだな。今まで俺にしてきた事に目を瞑ってきたのはアスヴェルの恋人だからだ。そうじゃなきゃお前は今頃ここには居ない。だが、リンネに何かした時は…容赦なく…消す」

幾らリンネが死なない身体を手に入れたとは言え、怪我をすれば血だって出る。
自分の『唯一』が人の手によって怪我をしたとなれば、一瞬のうちにヴラドの身体に殺気が纏うであろう事は容易に想像がつく。
リンネに何かした瞬間、リズはこの世から文字通り消えていることは間違いないだろう。
次期頭首のヴラドと、次期頭首候補レースにすら参加できないリズとでは天と地ほどの実力の差があるのだから。

ヴラドはそれだけ言うと、リズから視線を外しリンネをさらに強く抱きしめる。
そして一瞬のうちにその場から姿を消した。
ヴラド達が居なくなった後もリズは玄関先で、誰も居ない空間を見つめていた。

「消す、ねぇ…アスヴェルに大きな借りがあるあなたが、アスヴェルの恋人であるこの私を消すなんて出来るわけ無いわ」

クスクスと笑みを零し、目を細める。
聞く者が誰も居ないその呟きは、絶対の自信に満ちていた。

リズは知らない。
ヴラドとアスヴェルの関係を。
ヴラドがアスヴェルに対して大きな借りがある。それは事実だ。
だがアスヴェルがヴラドの事をどう思っているのか、リズは一度もアスヴェル本人に聞いたことが無い。
聞く必要もなかった。

それが、リズにとって誤算である事などもちろん気づくはずも無かった。




「ヴラドさん！やはり、リズさんのところにいたのですか？！」

屋敷へ戻ると、ヴラドの気配を察したのかジルが駆け寄ってきた。

「あぁ」

「そうですか。無事で良かったです」

「すみません。ご心配をおかけしました」

未だヴラドの腕の中から開放されないリンネは、頭だけ小さく下げる。

「さぁ、部屋へ戻りましょう。お茶の用意をしてきます」

若干小走りに、ジルは二人の前から厨房へと向かった。
その後姿を見送った後、困ったようにリンネはヴラドを見上げた。

「ヴラドさん？このままじゃ歩けないんですけど…」

相変わらずヴラドはリンネを抱きしめたまま。これではまともに歩く事は出来ない。
歩けたとしてもペンギンのような歩みになってしまうだろう。

「こうすれば問題ないだろ？」

「え？…きゃっ」

ヴラドに抱き上げられ、リンネは慌てて首へと腕を回す。
いわゆる『お姫様抱っこ』というやつだ。
一分、一秒でもリンネを離したくないのか、抱き上げたまま自室へと向かう。

「ヴラドさん、一人で歩けます」

「いいから。大人しくしてろ」

降ろす気配は全く無く、困ったようにリンネの眉が下がる。

廊下を歩いていると当然他の人とすれ違うわけで。
何事かと遠慮なくぶつけられる視線に、リンネはますます困ってしまった。

リンネはヴラドの傍に居る事をあまり快く思われていない。
一族最強の人物で、これから頭首となるヴラドの傍に何の力を持たない人間が居たのではアキレス腱になる事は間違いない。
頭首のアキレス腱であるということは、一族のアキレス腱にもなりうる。
ヴラドの『唯一』であることはその態度から十分過ぎるほど分かっているが、リンネが傍に居る事で一族の存続が危うくなってしまっては困る。
そう思っている人が過半数を占めていたのだ。

リンネに直接言って来る者は居ないが、屋敷の中を歩いていれば嫌でもそんな話は聞こえてくる。
だからと言ってヴラドの傍を離れるつもりは毛頭ない。
そのくらいで離れる程度ならば初めから魔界になどついては来ない。

だが、あまり波風を立てたくないというのがリンネの心情だった。

そんなリンネの気持ちを知ってか知らずか、ヴラドは二人きりだろうと誰かが傍に居ようと、傍に居ればリンネに触れてくる。
ヴラドに触れられて嬉しくない訳がない。だが、誰かが居る時にそうされるのは複雑な気持ちだった。

時間はたっぷりある。ゆっくりと時間を掛けてヴラドの傍に居る事を認めてもらえれればいい。

そう思っているリンネにとってヴラドの行動は些か困ってしまうのであった。
結局、下に降ろしてもらう事は適わず。自室へと戻ってきていた。

部屋に入ってからもヴラドはリンネを離さず、膝の上に乗せてそのままソファへと沈み込んだ。
リンネも二人っきりになれば何の問題も無い。
息を吐いてヴラドの首元へ額をつけた。

「…すみません。心配、掛けてしまって」

顔を上げてヴラドを見遣ると自嘲的な笑みとぶつかる。

「いや、あいつの存在をすっかり忘れてた俺が悪い」

「人間界に来る前にリズさんと何かあったんですか？」

「あぁ。あいつの恋人…アスヴェルって言うんだが、そいつを一族の頭首にしようと躍起になっていてな。ちょくちょく俺にちょっかい出してきたんだよ」

「ヴラドさんも頭首になりたくないって言っているのですし、普通に譲ればいい話なのでは？」

リンネは思ったことをそのまま口に乗せた。
そう思うのは普段のヴラドを見ていれば当然の事だ。

「まぁ、そうなんだけどな…確かにアスヴェルは実力はあるが、当の本人にやる気がない。「僕は頭首よりも参謀タイプなんだよね」だと」

嫌そうに眉を顰めながらアスヴェルのであろう口調でその台詞を言う。
そんなヴラドが可笑しいのか、リンネはクスクスと笑みを零した。

「やる気がないのはヴラドさんも一緒でしょう？」

「まぁ、そうなんだがな。わざと負けるのも癪だが、このまま一族の言いなりになるのも癪だ…が、しきたりには逆らえない。そういう風に身体に染み込まれてる。厄介な事この上ないな」

「身体に、ですか？」

「どういう仕組みだか知らねぇけどな。生まれた頃にでも何かの術でも掛けられたんじゃねぇの？」

「はぁ、なんだか大変ですねぇ…」

まるで人事のように ―実際に人事なのだが― 言うリンネに思わず溜息が漏れる。

「それで、リズには何もされなかったか？」

そう言いながら、唇をリンネのこめかみに一つ、二つと落とす。
くすぐったそうに肩を竦め、小さく頷く。

「えぇ。特にコレと言って何も…お茶と、葡萄ジュースをご馳走になりました。お腹も至って快調ですよ」

最後の言葉はヴラドを安心させようと、冗談のつもりで明るく言った。
しかし、ヴラドの表情が一瞬止まり、何か悪い事でも言ってしまったのかとじっとその顔を見つめた。

「葡萄ジュース？」

「はい。赤葡萄ジュースです。とっても美味しかったですよ」

笑みを浮かべて頷くリンネを見遣りながら、頭に何か引っかかるものを感じていた。
葡萄ジュース…なんだ？
何か、引っかかるんだが…後一歩で出てこない…
眉間に皺を寄せて考え込んでしまったヴラドを見遣り、リンネはどうしたものかと考えあぐねる。
何か声を掛けようと思った時、扉を叩く音がした。

「ヴラド様、お茶をお持ちしました」

「あ、あぁ…」

お茶を持ってきたジルの出現により、ヴラドの中で出てきた答えは一瞬にして消え去ってしまった。
何か違和感を拭えないまま、視線を上げると不安そうに見つめるリンネと目が合った。

「悪い。ちょっと考え事してた」

「いえ、それは良いんですけど…何か変な事言いました？」

「いや？気にするな」

チュと軽く唇を合わせると、笑みを向ける。

「なら良いんですけど…」

首を傾げつつも、リンネはヴラドの腕が緩んだので隣へと移動する。
それでもリンネの腰にはヴラドの腕が回されているのだが。

「それでは、私は失礼します」

ティーセットをテーブルに置くと、そのままジルは部屋を出て行った。

決してジルの仕事はヴラドの給仕係ではない。
ジルにだってやる事は沢山あるが、ヴラドの部屋にお茶や軽食を持ってくるのは毎回ジルだ。
彼なりにリンネに気を使っての行動なのだ。


リズに連れ攫われてから、ヴラドはリンネを一人にする事を嫌がった。
頭首就任の準備等の殆どをリンネを同席させていた。
どうしてもリンネを連れて行けない場合はジルの傍に居させた。

ヴラドの気持ちは分からないでもない。
頭首に就任するまで後僅かの間の事だとリンネは特に気にすることなくヴラドの後をついて回った。

魔界で特にこれと言って急を要してやる事があるわけでもない。
ヴラドの傍に居て魔界の事や一族の事を聞けるのも面白かった。



「後数日で就任式ですね」

二人は部屋へ戻ってきて、ソファへと腰を下ろしていた。
リンネはヴラドの隣に座り、当然というようにヴラドの手はリンネの腰に回っている。

「あぁ、一生来なくていいけどな」

「まだ諦めつかないんですか？」

可笑しそうに言って、クスクスと笑みを零す。

「後、数日か…」

笑みを零すリンネとは対照的にヴラドは深く深く息を吐き出した。

リズが行動を起こしてから数日、全くリズが動く気配がない。
アスヴェルを頭首にする事を諦めた訳でもないはずだ。
頭首就任よりも実はそちらの方が気がかりだった。

自分だけに来るのであれば蹴散らすだけ。

だが、リンネにまた何かあったら…。

人間界に行っているアスヴェルと、病に伏せた父親の事を恨めしく思ってしまう。
それに関してはどうしようもない事だが、リンネが関わってくる事だけに、それさえ無ければ…と思ってしまうのだ。
「ヴラドさん、頭首になったら今までのようには自由に出来ないのですか？」

考え込んでいるヴラドに気づいていないのか、ふとリンネはそんな事を言った。
小首傾げてヴラドを見上げるリンネを見下ろし緩やかに首を振る。

「いや？頭首だからと言って毎日特別な執務があるわけじゃない。年に数回と戦いがあった時くらいだな。頭首が本当に必要とされるのは」

「そうですか。私はヴラドさんが頭首になったら何をすればいいんですか？」

「何も？」

「何も？？？」

「うちの一族の党首となれば何もしなくても生活できるからな。まぁ、人間界で言う領主みたいな感じか？」

「そうなんですか？！世襲制じゃない領主っていうのも凄いですねぇ」

「その代わり、戦いがあったら先頭に立って戦うんだけどな。そこら辺は人間界の領主とは違うだろ？」

「そうですね。あっ！戦いになったらもちろん私も戦いますよ？それまでに頑張って鍛錬しておきますから」

「お前は戦わなくてもいい」

「ダメですよっ。働かざるもの食うべからずです」

戦いに出る事を心配しているヴラドをよそに、リンネはやる気満々だ。
頑張るぞー！とこぶしを握ってさえいる。
そんなリンネの様子に思わず息を吐き出した。

「ずっとヴラドさんの傍に居るって決めたんです。それは戦いの場であっても変わりません」

にっこりと笑みを向けた後、ギュっとヴラドの腰に抱きついた。

「ずっと私の傍に居てくれるんでしょう？」

その台詞に一瞬目を見開いてリンネを見つめる。直ぐに優しい笑みを浮かべると抱きしめ返した。

「あぁ。リンネが嫌だっつっても離さねぇよ」

「ふふっ…ヴラドさん、好きです」

「俺も。リンネ、愛してる」

見上げるリンネの顔にゆっくりと自分のそれを近づけていく。
二人の唇が重なる一歩手前で、ヴラドの肩がリンネによって押しやられた。

「…リンネ？」

怪訝そうに眉を寄せ、リンネを見下ろす。
そんなヴラドににっこりと笑みを向けると、ヴラドの膝の上に跨った。

「ヴラドさん…死んでください」

笑みを浮かべたまま、しかしどこかぼんやりとした表情でリンネはゆっくりとヴラドの首に手をかけた。

「リン、ネ…？」

突然の事にされるがままになっているヴラドを他所に、リンネの手に力が加わっていく。細められた目は、いつの間にか真紅に染まっていた。

「リンネ、お前…その、瞳は…」





―――キーワードは『愛してる』よ。自分の愛する『唯一』に殺されるなんて嬉しいでしょ？