【16】口付けの呪文 BACK | INDEX | NEXT
真紅に染まるリンネの瞳。

あの時感じた違和感はこれだったのかと今更ながらに理解する。
既に術は発動してしまっている。本当に今更だが。

「血の…呪いか…あの女も舐めた真似、してくれるっ」

ヴラドは低く唸ると、リンネの手首を強く握る。
鈍痛に一瞬だけリンネの力が緩んだ隙に、首からその手を引き離す。

「ヴラドさん…手、痛いです…」

下を向いたまま、小さくリンネが呟く。

「ん?あぁ、悪い」

それは条件反射に近かった。
思わず手を離してしまう。

「ヴラドさん、ありがとうございます」

トンと胸を突いてヴラドから離れる。
顔を上げてにっこりと微笑むその瞳は、やはり真紅のままだ。
何もしていないのだから当然だが。

「幾らなんでも、間抜けじゃないですか?」

「まぁ、俺もそう思う」

言いながら肩を竦める。

「随分と余裕なんですね?私の事、殺せる筈がないのに」

クスクスと笑みを零すその姿は、無邪気な子供のようだ。

「確かに、俺はお前を殺せないな」

「だったら大人しく…死んでくださいっ」

一瞬で手のひらに氷の刃が作成される。
振りかぶり、ヴラドへと襲い掛かる。

「だからって、やすやすとやられる訳にはいかねーんだよっ」

ひょいっとリンネの攻撃をいとも簡単に避けてしまう。
何度襲い掛かっても結果は同じ。
氷の切っ先はヴラドに致命傷を与えるどころか、かすり傷一つつける事が出来ない。

「っ…これなら、どうですかっ?!」

手のひらから炎の玉がヴラドへと放たれる。
が、ヴラドの手前で炸裂してヒラヒラと火の粉が床へと舞った。

「そんな…」

「魔術、大分上達したじゃねぇか」

口端上げて笑みを作る。
肩で息をしているリンネに比べて全く息を乱していない。
それもそのはず。
全力で襲い掛かっているリンネに対して、ヴラドは最小限の動きで避けているのだ。
これが長引けば長引く程、二人の差が顕著に出てくるのは目に見えている。

「俺はリンネを殺せない。リンネも、俺を殺すことは出来ない。このまま行っても平行線を辿るだけだぜ?」

「はぁ…はぁ…なん、で…」

「血の呪いは、万能じゃねぇからな…って、今のリンネに言っても無駄か」
血の呪い ―チノマジナイ― それは、赤葡萄で出来た飲み物、出来ればワインと血を混ぜたものを相手に飲ませると、意のままに操る事が出来る魔術だ。
だが、ヴラドの言う通り、血の呪いは万能ではない。いくつか制約があるのだ。

まず、操れる相手は術者よりも実力の低い者のみ。
魔力だけが基準ではない。戦いや訓練によっても相手より上になる事は可能だ。
今回はリズがリンネを操る事が出来たが、いつの日か力関係が逆転する可能性も十分にありえる。

次に、術にかかった者の能力が上がるというわけではない。
能力を向上させるのではなく、ただ意のままに操れるというだけ。
リンネはリンネの実力以上のものを発揮できるわけではない。
魔術も、戦いにおける場数もヴラドとは比較にならない。
どうあってもヴラドに一太刀浴びせる事など出来はしないのだ。

また、術者が魔力を失うか、死亡した場合は当然ながら術は解けてしまうのだった。
そして、術を解くにはもう一つ。



「どうしても、死んでくださらないと言う事ですね?」

「はっきり言うならそうだ」

「そうですか…」

リンネは静かに瞳を閉じた。

「それでは、これなら…どうですか?」

うっすらと笑みを浮かべ、持っていた氷の刃を自分の首へと当てた。

「ヴラドさんが死んでくれないなら、私が死にます」

「…それは、リズの命令か?」

「えぇ、マスターがいざとなったらこうしなさいと」

「まぁ、そうだろうな…あの、クソアマ…」

心底嫌そうに呟く。

こうやってリンネと話しては居るが、リンネにたいした思考能力は現在ない。
ただ、操ったリズの命令を遂行しているだけだ。
リンネが死なない身体だって事を当然ながらリズは知らない。
そして、操られているリンネもまた、それを忘れてしまっている状態だ。

力の入った手に、リンネの首筋から一筋血が垂れ落ちる。
死なない、とは言え怪我をしないわけではなかった。
ただ、人並み外れた回復力によりあっという間に傷は塞がって行く。
それでも、ヴラドはリンネを傷つけたく無かった。
チラリとリンネの肩越しに後ろを見遣る。
リンネの後ろにあるのはベッドだ。
ヴラドは素早くリンネに駆け寄ると、リンネが反応するより速くその身体を後ろに突き飛ばした。

「キャッ」

反動で手から刃が零れ落ち、ベッドに落ちて消えた。

リンネの上に乗ると、両手を押さえた。

「リズの奴をどうにかする前に、まずはリンネをどうにかしねぇとなぁ?」

リンネの紅い瞳を覗き込む。

「私を始末するつもりですか?」

「まさか。お前もさっき、俺にはそれが出来ない、と言っていたろ?」

「それも、そうですね。では、どうするつもりですか?」

ヴラドは無言で、暫し二人は視線を交わす。
リンネも抵抗する気も見せず、ヴラドに手首を掴まれたまま。

「そうだな…とりあえず、キスでもするか?」

「この状態でそんな冗談を…」

「冗談だと思うか?」

ヴラドはゆっくりと顔を寄せていく。
その間もリンネはじっとヴラドの顔を見ているだけだ。

まさに二人の唇が付こうかという瞬間。



――――コンコン



静かだった部屋の均衡を破るノック音。

ヴラドはゆっくりと顔を上る。

「誰だ?」

「ヴラド様、お知らせがあって参りました」

声の主はジルだ。

「お前か。入れ」

声にジルが部屋に入ると、飛び込んできたのは二人の姿。
リンネの上に馬乗りになっているヴラドだ。

「…お取り込み中、でしたか」

そう言って出て行こうとするジルを引き止める。

「ジル、お前補助系の魔術が得意だったな?」

突然の問いかけに、ジルは戸惑いながらも頷く。

「相手を眠らせる術は?」

「えぇ、得意ですが…それが?」

「悪いが、リンネを眠らせてくれ」

「ええっ?リンネ様をですか?」

「そうだ。ちょっとこっちに来い」

入り口に立ったままのジルを呼び寄せると、顎でリンネの方を指す。
釣られるように見ると、リンネの紅い瞳。

瞬時に理解したジルは、リンネの額に手をかざした。

「得意なんですけど、有効範囲が一メートル以内ってところがいまいち使い道が無いんですよねぇ」

そんな事を言いながら手に魔力を集中させる。
ポゥっと手のひらが暖かくなったかと思うと、リンネは瞳を閉じ、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
リンネから退くと、ベッドの端に腰を下ろす。
やさしい手つきでリンネの前髪を撫でた。

「これで明日の朝まで起きませんよ…それにしても、これって血の呪いですよね」

「あぁ。リズの奴、舐めた真似を…あぁそうだ。確か地下に最高級のワインあったよな?」

「確かあったはずです…持ってきます」

バタバタと音を立てて部屋から出て行くジルを見遣った後、リンネへと視線を戻す。

「色々と…教えてやらねぇとな…魔界のことも、魔術の事も…」

はぁ、と息を吐き出した。
程なくしてジルが部屋へと戻ってくる。

グラスに入ったワインを受け取ると、そこに自分の血を数滴垂らす。
それを口に含むと、リンネに口付けてワインを流し込む。
コクン、と喉が鳴ったのを聞き、ほっと胸を撫で下ろす。
リンネの耳元へと口を寄せる。

「…今日あった事は忘れろ」

そう言って、リンネの頭をひと撫でするとベッドから離れた。

操られている状態の時の出来事は覚えている事はまずない。
だが、何かの拍子で思い出す事があるかもしれない。
操られているとはいえ、自分の身体でそれを行っているのだから。

「それで?知らせっつーのは?」

ドサリとソファへ身体を沈めながら、ジルへ顔を向ける。

「あぁ、そうでした。アスヴェルさんがもうすぐ戻ってくるそうです」

「もうすぐってどれくらいだよ?大分前からもうすぐって言われてたよな?」

「どうやら、アスヴェルさんがこちらと連絡が取り合えるくらいに向こうでの契約が切れ掛かっているようで、恐らくヴラドさんの就任式あたりに戻ってくるのではないかと」

「そう、か」

ジルの言葉を聞き、ふーっと息を吐き出して瞳を閉じる。
その姿に、ジルは一瞬迷ったが口を開く。

「それで…リズさんは、どうなさるおつもりですか?」

「この手で消してやりたいのは山々だがな…この対処はアスヴェルに任せる」

「アスヴェルさんに、ですか?」

「あぁ。その方が、リズにとっても痛手だろうしな」

「でも、アスヴェルさんが恋人のリズさんに何かするでしょうか?」

「さぁな。その時はその時で俺が行動を移すまでだ」

「そうですか…それでは私はこれで」

ジルは一礼すると部屋から出て行く。

ヴラドはきつく拳を握り締めた。
爪で傷ついた掌は、うっすらと血が滲む。


血の呪いを解くにはもう一つ。
術者よりも強い者がさらに術を行えばいい。
その場で術は解け、また更に命令を上書きする事が出来る。
もちろん命令を行わず、元通りにだけする事も可能だ。

当然ならがヴラドは命令を行わなかった。
いや、一つだけ。
ただ【忘れろ】と。

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