美女と野獣のエトセトラ
星陵学園生徒会副会長、河瀬深雪は頭脳明晰で容姿端麗。手の入れていないつやつやの黒髪はまるで日本人形を彷彿とさせる。
しかし彼女は、一部の人を除いて非常に冷たかった。
その眼で見られた者は凍ってしまうくらいの視線、冷めた口調に辛辣な言葉。
身内と認められた者以外の前では滅多に笑わない。
人は彼女の事を『雪の女王』と呼ぶ。
「深雪、今度のレクレーションの事なんだけど、ちょっといいかな?」
深雪に声を掛けたのは、生徒会長である桐嶋空だ。
「ん。どうしたの?」
ふわりと微笑んで、空の傍へと近寄った。
空は深雪にとって特別の一人。
雪の女王の本当の笑みは、名前とは相反しての春のようだった。
此処は生徒会室で、他の生徒会役員も揃っている。
彼らもまた、深雪に身内と認識されていた。
「このルール、ちょっと抜けがあると思うんだけど」
「どれどれ?」
空から紙を受け取り、内容に目を通していく。
「あぁ、鉢巻の事ね?」
「そう。鬼に捕まってなくても鉢巻を外していたら、絶対に捕まらないだろう?」
「確かに、そうだけど。それも戦術の一つじゃないかしら。でも、そんな事したらレクレーションの楽しみがなくなるだけね」
「どうしようか」
「別にそのままでいいんじゃないかしら。例え明記してても、実際ずるしてるかどうかなんて名簿見なければ分からないわけだし」
「それもそうか。じゃぁこのままで行こう」
紙を手元にあるファイルに仕舞うと、空は立ち上がった。
生徒会員である何人かが室内に居るが、今日の生徒会の仕事は既に終わっている。
ソファに給湯設備のある生徒会室の居心地が良くて、時間を潰しているだけだった。
「深雪、今日うちに寄ってく?」
帰る準備をしながら空は深雪に問いかけた。
深雪もまた、帰るために自席にある鞄を手に取った。
「そうねぇ…今日は火曜日か。ん、いいよ」
にっこりと笑みを向けて頷いた。
「ちょっと図書室に用事があるから、先に玄関で待ってて?」
「分かった」
空も頷いて、生徒会室から出て行った。
人目も憚らず、空が深雪を誘うのはいつもの事。
雪の女王様も彼の前では全くの別人。美男美女でお似合いのカップルだと広い校内でも有名な二人だった。
深雪は図書室に来ると、鞄から借りてた本を取り出して、返却手続きを行う。
壁に掛かっている時計を見ると、5時を少し回ったところだ。
図書室が閉まるにはまだまだ時間がある。
今返却した本の続きを借りようと、目当ての本がある本棚へと脚を向けた。
目当ての本は図書室の一番隅にある。
一階分を丸々図書室に使っているこの部屋は、入り口から端に行くまでに結構な距離を要する。
入り口の脇にカウンターがあり、図書委員と司書がそこに座っている。
カウンターの前には机と椅子が並べてあり、そこで自主勉強や読書をしている人も少なくない。
図書室の端に行けば行くほど、書は高校生が読むとは思えないほど難しい、専門的なものになっていく。
実際に読んでいるのは生徒ではなく、教師が殆ど。
土曜日などはたまに隣の敷地にある星陵大学の学生が借りに来たりもするが。
図書室の端の壁が大分間近に見えてきた頃、静かだった室内に人の声が聞こえてきた。
少し高めの女性の声が殆どで、極たまに男の声も聞こえてくる。
目的の棚まで来たときにはその声がはっきり聞こえ、深雪は角を曲がることを僅かに躊躇した。
「ねぇ…いいでしょ?此処なら人も来ないしぃ…」
甘ったるい女性の声に、僅かに眉を顰める。
書物の隙間から、二人の姿が見え隠れしている。
一歩足を踏み出せば、その姿がクリアになった。
床に座り込み、足を投げ出している男子生徒の膝の上に女性とが横向きに座り、首に手を回してしなだれ掛かっている。
それだけを見ればラブシーンの真っ最中。
だが、男子生徒を見るとそうとも言えない。
邪険にこそ扱っていないが、はっきり言えばその存在に気にも留めていない。
女を振りまく彼女には目もくれず、手元にある本を読んでいた。
「ねぇ。本なんて読んでないでぇ…」
徐々に増していくその声の甘さに、深雪の眉間の皺は深く深くなっていく。
更に一歩踏み出すと、深雪の気配に気づいたのか、男子生徒と目が合った。
その途端、深雪の目はいつも以上に冷たいものとなった。
また、男子生徒も睨みつけるかのように鋭い眼光を深雪に向ける。
それに気づいたのか、女子生徒は驚いたように振り返った。
「ゲ。雪の女王様…」
小さな呟きだったが、静かな室内だ。深雪の耳に届くには十分な大きさだった。
しかし深雪はそれには全く反応せず。傍に居た男子生徒は、口端を上げて小さく笑みを作った。
「そこにある本が取りたいのだけど。邪魔だから退いてくれないかしら?」
周囲を氷点下へと変えていくその声に、女子生徒は僅かに身体を震わせた。
それでも男子生徒は全く気にしていない様子で、更に口元の笑みを深くする。
「なっ、なによ。今いい所なんだから邪魔しないで」
一瞬震えたくせに、女子生徒は強気な発言をする。
しかしその場に居た二人はその発言には答えない。
冷たい視線と鋭い視線が絡み合う。
先に動いたのは男子生徒の方。
女子生徒を床の上に下ろすと立ち上がった。
「えぇ?ロイド、行っちゃうのぉ?」
歩き出した男子生徒を追うように、女子生徒は慌てて立ち上がる。
その声に全く反応を示さず、男子生徒は深雪の方へと歩いて行く。
その間も二人の視線は絡まったまま。
狭い通路内、僅かに二人の肩が触れ、ふわりと風に乗って男の付けているシトラスの香りのコロンが深雪の鼻腔をくすぐった。
去る後姿を見る事無く、深雪は目的の本がある本棚へと足を踏み出した。
「やっぱりぃ、雪の女王様とロイドって仲悪いんだ?」
「別に?」
「だってぇ、すっごい睨み合ってたしぃ」
女生徒の歩調に合わす事無く、自分のコンパスを利用して速い歩調で出口へと向かっていく。
「もぅっ、ロイド速いよぉ」
そんな女子生徒の声に足を止めると、振り返った。
「名前も知らない君と、この後どこか行く予定なんてないんだが?悪いけど、他探して」
にっこりと笑みを付けてそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
「もーっつれないんだからっ…でも、そこが良いんだよねー」
そんな女子生徒の言葉も全く耳に入れていない様子で、図書室から出て行った。
男子生徒、高槻ロイドは深雪のクラスメイトだ。
色素の薄い茶髪と蒼眼。名前と容姿からも分かるようにハーフ。
女をとっかえひっかえしているだとか、2股どころか3股4股は当たり前だとかそんな噂の持ち主だ。
だが、実際に手を出されている女性がこの学園には居ないため、あくまでも噂だ。
先ほどのように彼の周りには女性がよく居るため、噂を否定できないのも現状なのだが。
そのロイドは、深雪と非常に仲が悪いともっぱらの評判。
2年の時に同じクラスになってから、顔を合わせれば先ほどのような睨み合いをしているからだ。
二人が喧嘩をしているところは見たことはない。怒鳴り合うなど皆無で、冷戦状態。
殆ど言葉を交わさず、冷たい視線と鋭い視線がぶつかり合う。
周りに居た者を震え上がらせる程の視線は、常に二人の間にあった。
それ故に仲が悪いと噂されているのだった。
深雪が空の家から帰ってくると、時計は7時を回ったところだった。
マンションのオートロックを解除し、2重になっている自動ドアの中へと入っていく。
1階で停まっていたエレベーターに乗り込むと、12階のボタンを押した。
このマンションは12階建て。つまり最上階という事になる。
部屋のドアを開けると、出迎えたのは出来立ての食事のいい匂いと、玄関から一番遠いところにあるリビングから聞こえてきた「おかえり」という男の声。
深雪はリビングに行くと、ソファに座っていた男に答えずその隣の部屋へと入った。
制服から部屋着に着替えると、再びリビングへと戻る。
「ただいまっ」
空に向けるのとはまた違った笑顔を向けて、深雪はこの部屋に入ってから初めて言葉を発した。
「ほんっと、制服着るとキャラ変わるよなぁ。家に入ってからも脱がなきゃ学校モードのままだし」
男は可笑しそうに、からかう様な視線を向ける。
「まさか、私もここまで自己暗示に掛かりやすいとは思ってなかったけど。でもおかげでばれてない」
二人はキッチンのカウンターにつけるように置いてあるダイニングテーブルに移動すると、向かい合って座った。
いただきます。と手を合わせると、箸を手に取った。
「別に、俺はばれたって構わないが」
「やーだ。私が構うの。いいでしょ?秘密の関係って響きが」
クスクスと笑う深雪に、男は息を吐き出した。
「確かに響きはいいけどな。俺は、いつでもどこでも構いたいんですけど?」
「しーらない」
頻繁にやりとりされるこの会話に、深雪はにっこりと笑って受け流した。
「今日も、空の家に行って来たわけだ」
食事も食べ終えて、リビングのソファに座ってまったりと寛いでいると、キッチンから戻った男が背後から抱きしめて、深雪の首筋にキスを落とした。
「そうよ。だって火曜日だし、ご飯作る必要ないもん」
「俺の奥さんは職務怠慢なんじゃないか?」
あきれたように言いながら、深雪の隣に腰を下ろした。
「あら。ちゃんと学校も行ってるし、家事もやってる。職務怠慢なんて言いがかりもいいとこね。それに、まだ奥さんじゃないんだから、いつだって此処から出て行ってもいいのよー?」
「それは困るな」
「だったら、沢山私を甘やかしてね。ローイ?」
クスクスと笑いながら、深雪は唇を相手のソレに重ねた。
ロイと呼ばれたその男、色素の薄い茶髪と蒼眼の容姿を持つ、学校では仲が悪いと噂されている人物だった。
「そういや…『ロイドと雪の女王様ってやっぱり仲が悪いんだねー』だってさ」
深雪を足の間に座らせて、腕の中に閉じ込めながら思い出したようにロイドは呟いた。
「ロイの私を見る眼がいけないのよ。垂れ眼の癖に、眼光鋭いんだもん」
「垂れ眼は余分だ。それに睨んでる訳じゃないし。学校じゃ触れないのを我慢してんの。敢えて言うなら視姦?」
「ちょ、視姦て」
「いつでもこうしたいってのを視線に乗せてるだけ」
掻き分けた髪の隙間から現れた項にキスを一つ。ついでにもう一つ。
「もう。エッチ」
深雪も満更ではない様子で、くすぐったそうに眼を細めた。
「男はいつの時代もエッチなんです。それに、仲が悪いって噂されんの、深雪の視線も関係してると思うわけだが」
「だって、気合い入れないと表情にでちゃいそうなんだもん。ばれて今の状況を壊されたくないの」
「別に俺は今更ハイスクールになんて興味ないけど?ばれて辞めるの大いに結構。そしたら仕事に専念出来る」
「やだ。折角ロイが留年してくれたお陰で同じ高校で同じクラスなんてのを謳歌出来てるのよ?最後まで付き合ってもらうんだから」
振り返ってロイの首に腕を回してギュっと抱きついた。
「はいはい。うちの姫さんは我侭だな」
ロイドはそのまま深雪を抱き上げると、ソファから立ち上がりリビングを後にした。
深雪が留年と言ってるだけあって、ロイドは現在19歳だ。
2年の時に学園に転校してきて、その1年間殆ど学校に通っていない。
つまりは出席人数が足らずに留年したという事だ。病弱な訳ではない。わざとそうした。
深雪のわがままに付き合うために。
ロイドは母国では飛び級でハイスクールを既に卒業している。
現在高校に通っているのはお遊びに近い。
さっさと大学に進めばいいのに、こんなお遊びに付き合っているなど、とことんロイドは深雪に甘いのだった。
「俺としては、空とデキテルっつー噂も腹立たしいんだけど」
ベッドの上に深雪を横たえて、上に圧し掛かりながらそんな台詞を吐いた。
「もー。こんな事しながらする話じゃないよ?」
頬に、唇にキスを降らせるロイドに擽ったそうに眼を細める。
「空は大事な彼女を守りたくて、私は今の状態を守りたい。利害が一致してて丁度いいの!」
「学校で滅多に会話出来ないのに、空には笑って話してるのも気に入らない」
服の下から胸をまさぐりながら、眉間に皺を寄せる。
「んっ…だって、空は特別だもん。世界中探してもどこにも居ない。これから作られることもない。たった一人の大事な弟」
にっこりと笑って、深雪はロイドの唇にキスをする。
「でも、ロイだって空とは違う意味で大切。大好きだよ。私の未来の旦那様―――」
「ぁんっ…はぁっ…」
突き上げるたびに、深雪の胸元で指輪の通ったネックレスが揺れる。
二人が将来を誓い合った約束の証。
ロイドは身を屈めると、軽くその証に唇を落とした。
「も、ロイ…あぁっ…んっ…ああああっ!!」
涙の溜まる目尻にそっとキスをして、ロイドは深雪の中から抜け出した。
何度抱き合っても飽きない。まだ足りない。
学校で触れ合えないのも、多少なりとも夜のスパイスになっているのかもしれない。
それでも、学校で仲良く出来ないのは不満なのだが。
「全然、虫除けになってないよねぇ」
行為の後の気だるさを残しつつ、上気した頬で深雪はロイドの薬指にある金属をツ…となぞる。
「ファッションだって思われてるみたいだしな」
ロイドは起き上がると、深雪の身体を抱き起こした。
「風呂行くか?」
「うん。つれてって」
「了解」
ロイドの薬指には学校に行く時も常に指輪が光っている。
太くてゴツイそれは、左手の薬指にしているにも関わらず、ファッションだと思われていた。
「婚約している」と一度だけ言った事があったが、それもまた冗談で済まされた。
それを言った日の夜は、秘密を守りたいという深雪が拗ねて酷い目にあった。
それ以来口にしていないから、学校内ではそんな話があったなどすっかり忘れ去られている。
次の日の昼休み、生徒会室に用事があった深雪が教室に戻ってくると、いつもの光景が飛び込んできた。
ロイドの周りは女性が絶えない。
大胆にも膝の上に乗ったりとかしている事もある。
ロイドは決して自分からは行わないが、相手の行動を咎めたりはしない。
他の女に触られたくなかったら、さっさと恋人宣言しやがれ。
深雪に対する意趣返し。
深雪はそれでも宣言したりはしない。
嫉妬の炎を隠すために、その眼に冷たい炎を宿すだけ。
深雪に気づいたロイドは、またいつもの目を向ける。
本人曰く、睨んでいるのではなく視姦しているのだそうだ。
深雪はそれを思い出して、身体の奥がジワリと熱くなるのを感じ、更に表情に氷を纏った。
あれは群れの頂点に立つ獣の眼よね。垂れ眼の癖に。
強いオスに群がるのはメスの習性ってやつかしらね。
内心溜息をついて、自席へ戻ろうとすると、ある一点に目が行きピクリと米神の辺りが動いた。
今日はいつもと違った。ロイドの手が女生徒の腰に巻きついていたのだから。
真相は、無理やり女生徒がロイドの手を腰に回させたのだが、そんな事は深雪は見ていないので知らない。
絡み合う視線をフイと逸らして、ロイドの三つ前の席に行こうとその隣を通った。
「おい」
珍しくロイドが話しかけてくる。
ついでに深雪に手が伸びた。
咄嗟に深雪は捕まれた腕を払い、それを見ていた周囲は固まった。
「触らないでいただける?これ以上触るようなら、星屑にしてさしあげるわ」
そんな言葉を口にする。氷の微笑をその顔に貼り付けて。
それから一週間、ロイドは深雪に家でも接触禁止令が出されたのだった。
終
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